川村 怜 Ryo Kawamura
1989年生まれ、大阪府出身。
パペレシアル品川所属。
2013年さいたま市ノーマライゼーションカップで日本代表デビューし、世界王者ブラジルから初ゴールを奪う。
インチョン2014 アジアパラ競技大会、世界選手権2014、アジア選手権2015、2017、2019などに出場。
得点力と豊富な運動量でチームを主将として牽引する。
普段はアクサ生命保険株式会社で働く。
(登壇順)
1989年生まれ、大阪府出身。
パペレシアル品川所属。
2013年さいたま市ノーマライゼーションカップで日本代表デビューし、世界王者ブラジルから初ゴールを奪う。
インチョン2014 アジアパラ競技大会、世界選手権2014、アジア選手権2015、2017、2019などに出場。
得点力と豊富な運動量でチームを主将として牽引する。
普段はアクサ生命保険株式会社で働く。
プロサッカー、プロ野球など多くのトップアスリートを指導。ブラインドサッカー日本代表のフィジカルコーチを務める。
また、イタリアのトレーナー協会APF(Accademia Preparatori Fisici)で日本人として初めて名誉会員(Socio Onorato)となり、イタリア人トレーナーにも指導を行なっている。
自身が代表を務めるスポーツトレーナー協会のJARTAは、西洋・東洋の医学と身体観を重視した身体操作系トレーニングを提供。スポーツトレーナーを育成する認定資格制度もあり、2019年8月現在、全国に約160名のJARTA認定資格保持トレーナーがいる。
中学時代に全国大会で優勝すると、高校でも国体優勝。アジア大会の日本代表に選ばれる。天理大学4年時には主将としてチームを日本リーグ優勝に導いた。
2007年から2017年まで、コカ・コーラウエストレッドスパークス(現 コカ・コーラレッドスパークス)に所属し、3度の日本リーグ優勝に貢献。
2008年北京、2016年リオデジャネイロと、オリンピックにも2度出場し、2018年のアジア大会では、歴史的な初優勝を果たした。
現在はSOMPOケア株式会社の広報部に所属しながら、日本代表選手として活動するとともに、慶應義塾大学女子ホッケー部のアドバイザーを務めている。
少年時代から野球、テニス、総合格闘技、サーフィン、ダブルダッチと、様々な競技に取り組んできたが、どれもNo.1にはなれず。
社会人になるにあたり、「プレイヤーでNo.1になれないならトレーナーとしてNo.1になろう」と勉強に励んでいたところ、偶然、ライフセービングと出会い、そこから始めたビーチフラッグスでついに日本一となる。
その後、世界一を目標に掲げ、課題である走力アップのため、世界最速のウサイン・ボルトが在籍するジャマイカのクラブに練習留学。3ヶ月で100mのタイムを1秒縮めた。
現在、「足の速さは才能」という常識を否定し、その独自理論を全国に広めている。
東京女子体育大学時代、インカレ4連覇を達成。大学3年時の2000年には、日本代表のピッチャーとしてシドニー五輪に出場。決勝のアメリカ戦で先発のマウンドに上がるなど、銀メダル獲得に貢献した。
引退後は指導者となり、現在は淑徳大学教育学部のこども教育学科助教として教鞭をとる傍ら、ソフトボール部の監督を務めている。
長年競技に取り組んできた知見をもとに、「ソフトボールにおけるピッチングフォームの身体的メカニズム」などを研究している。
幼少よりクラシックバレエを始め、松山バレエ学校、同バレエ団を経て、パリに留学。
Vienna Festival Balletでファーストソリストとして活躍中、ケガを機にピラティスと出会い、その後アメリカで学び、ネバタ州立大学公認ピラティスライセンスを取得。現在はDKピラティス・マスタートレーナーとして、トレーナーの育成を行っている。
2012年、Body Making Studio Auliiを銀座にて設立、代表を務める。
2016年、一般社団法人ウイメンズヘルス協会を立ち上げ、医療と連携し、女性のためのヘルスケアプログラムを制作。乳癌学術学会にてピラティスでのリハビリの可能性を発表し、現在は虎ノ門病院、聖マリアンナ医科大学病院 などで講座も行っている。
2011年インストラクターオブザイヤー敢闘賞、2017年インストラクターオブザイヤー。
法政二高時代、高校日本代表に選ばれ、法政大3年時には25年ぶりの大学日本一に貢献。その後、名門・神戸製鋼に入社し、全国社会人大会と日本選手権でそれぞれ3度の優勝を経験。
トップリーグ開幕初年度の2003年には、中心選手としてチームを初代リーグチャンピオンに導いた。
また、日本代表としては1999年ウェールズ大会、2003年オーストラリア大会と、2度のW杯に出場。
代表キャップ62は、歴代8位。(2019年7月現在)
2018年1月、釜石シーウェイブスで現役を引退。46歳まで現役を続けたラグビー史に残る稀有なプレイヤーだった。
現在は、2019年W杯日本大会のアンバサダーを務めている。
近畿大学1年の時、18歳で北京五輪に出場し、4×200mリレーで7位入賞。翌年、2009年の新潟国体で100m自由形の日本記録を樹立する。
キャリア通算で、オリンピックには2大会(2008年北京、16年リオデジャネイロ)、世界選手権は4大会(2009年ローマ、11年上海、13年バルセロナ、15年カザン)に出場、日本のフリーリレーをけん引した。
引退後、2017年4月に星野リゾートへ入社し、東京・大手町の日本旅館「星のや東京」に2年間勤務。現在は広報として、星野リゾートの認知向上に励んでいる。
1968年生まれ、神奈川県出身。法政大学卒業後、サッカー専門誌『サッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社)の編集部を経て、98年よりフリーランスのスポーツライターに。
『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などのスポーツ誌を中心に様々なノンフィクションを執筆、近著に『日本サッカー代表監督総論』(双葉社)がある。
92年からサッカー日本代表の取材をほぼ全試合現地にて取材。ワールドカップは98年フランス大会から6大会連続で取材している。また、サッカーの他にも、フィジカルトレーニング、ラグビー、ランニングなどに関連した取材や執筆を手掛けている。
5歳の時、右腕にデスモイド腫瘍を発症。10年間の治療の中で右上肢機能障害となる。
15歳で陸上競技と出会い、早稲田大学に進学すると、障がいを負ったことの意味を見出す中で本格的に競技を始めることを決意。その後、2016年リオデジャネイロパラリンピックでの4×100mリレー・銅メダルをはじめ、三段跳びや走り幅跳びでも次々と国際大会でメダルを獲得。18年末から練習の拠点をオーストラリアのシドニーに移し、東京パラリンピックでは金メダルを目指している。
競技活動のテーマは「スポーツ×社会性」。際立った結果を残すことで、自分が理想とする社会の実現に近付けたいという強い思いが原動力となっている。
日本を代表するフリースタイルフットボーラーの一人。TVやCM、全国各地のイベントなどに出演し、サッカーボールを自由自在に操る驚愕のパフォーマンスを披露している。
世界初のフリースタイルフットボール専用アプリをリリースするなど、技のコツを言語化するクリエイターとしても活躍しており、自ら運営するYoutubeチャンネル【TRICkSTAR5】は総視聴回数5500万回、登録者数11万人を超え、シルバークリエイターとして殿堂入りを果たした。
現在、ドリブルプロジェクトのディレクターとしても活動中。
両親ともに元体操選手で、体操クラブを経営。6人兄弟のほとんどが体操選手という、体操一家で育つ。
2004年アテネ五輪団体の金メダルをはじめ、世界選手権でも数々のメダルを獲得。
引退後、史上最年少の32歳で男子体操の強化本部長並びに代表監督に抜擢され、2015年の世界選手権では37年ぶりの団体金メダル、リオ五輪では自身が選手として出場したアテネ五輪以来12年ぶりの団体優勝に導いた。
2018年10月に行われた世界選手権団体決勝では銅メダル、2020年東京五輪の出場枠を獲得した。
4歳からスケートを始める。
男子シングルで、世界ジュニアフィギュアスケート選手権で銅メダルを獲得した後、全日本選手権で2回優勝。2002年にはソルトレークシティ五輪に出場した。
現在、法政大学兼任講師を務める一方、日本スケート連盟のフィギュアスケート強化副部長として、トップ選手の医科学サポートや後進の育成にあたっている。
琉球大学理学部出身。入門時は「角界初の国立大学出身力士」として、引退時には「現役最高齢力士」として注目を集める。
身長166cmの小兵ながら46歳11カ月まで現役を続けられたのは、長年、理想的な身体の使い方など相撲を探求し続けてきた賜物。
現在は高砂部屋のマネージャーとして相撲界を支えながら、各地でシコトレ教室を開催するなど独自の理論を広く伝えている。
様々なドリブル技術を個人にあった形にデザインし、「誰でも抜ける」ドリブラーにするドリブル専門の指導者。「99%抜けるドリブル理論」を持つ。
ネイマール、ロナウジーニョ、ダービッツなど世界屈指の選手たちと共演し、原口元気、乾貴士、齋藤学といった日本代表アタッカーも指導している。
SNSで配信している動画再生回数は1億PV以上、Facebookのフォロワー数は約45万人(2019年7月現在)というサッカー界のインフルエンサー。
座右の銘は「チャレンジする心」。
ドリブルデザイナー・岡部将和さんの「99%抜けるドリブル理論」、詳細は以下で配信中です。
https://note.mu/dribble_desinger
バイオメカニクスを専攻し、中京大学大学院にて博士号(体育学)を取得。国立スポーツ科学センター、国際武道大学を経て、現職。投手の動作解析を中心とした研究で、第18回日本バイオメカニクス学会奨励賞、第55回東海体育学会奨励賞、日本バイオメカニクス学会優秀論文賞、秩父宮記念スポーツ医・科学賞奨励賞を受賞。北京オリンピックでは、金メダルを獲得した女子ソフトボール代表チームをサポートした。2016年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの戦略室R&Dグループに所属し、スポーツ科学を使ったチームの強化を推進した。現在は株式会社ネクストベースの主任研究員も務める。
近年、メジャーリーグのデータ革命が話題となっているが、その分野における国内第一人者。
座右の銘は「常識を疑え」。
スポーツバイオメカニクスの専門家で、シンガポールスポーツ研究所に3年間在籍。
ロンドンオリンピックでは、日本卓球史上初の銀メダルを獲得した卓球女子ナショナルチームをサポート。
現在、JISSでは、東京オリンピックでのメダル獲得に向け、卓球のほか、バレーボール、空手、バドミントン、パラスポーツなど様々な競技のサポートをマネジメントしている。
また、スポーツバイオメカニストとして、様々な競技のスイング動作のメカニズムを解析しており、自ら競技経験のあるサッカー、フットサルのキック動作の研究には特に注力している。
隠しきれないシンガポール訛り英語スピーカー。
座右の銘は「In the middle of difficulty lies opportunity」(困難の中にこそチャンスはある)。
東京大学医学部卒業後、ダナファーバー/ハーバードがん研究センター客員研究員などを経て、2014年に株式会社データビークルを創業。現在は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)アドバイザーも務める。
主な著書に『遠藤保仁がいればチームの勝ち点は117%になる データが見せるサッカーの新しい魅力』など。『統計学が最強の学問である』は、シリーズ累計48万部超のベストセラーとなっている。
座右の銘は「全力よりも最善」
「ITをスポーツに活用すること」を志して大学時代に独学でアナリスト活動を開始。在学中に全日本女子バレーボールチームのアナリストに抜擢され、以後10年以上にわたり情報戦略活動を担当。2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと3度のオリンピックを日本選手団役員として支援している。
全日本チームの支援を続ける傍ら、アナリスト育成セミナー等を開催して後進育成にも注力。
独立行政法人日本スポーツ振興センター、ハイパフォーマンス・サポート事業所属。2011年より現在に至るまで、バドミントン日本代表の映像分析を担当。
2016年リオデジャネイロオリンピック、及び2017年世界選手権を含む多数の国際大会に帯同してチームをサポート。
仙台育英―青学大を経て、2001年ドラフト8巡目でヤクルトに入団。10年限りで現役を引退し、11年からヤクルトのスコアラーに、18年から巨人軍のスコアラーに。
15年第1回「プレミア12」から侍ジャパンのスコアラーを務める。
座右の銘は「運命を愛し希望に生きる」。
35年を数える指導者歴の中で、トップアスリートをはじめのべ1万人以上を指導してきた、コアトレ並びにコンディショニングの第一人者。
筋肉にフォーカスし、筋肉を「鍛える」よりも「整える」ことで体調と体形を劇的に改善する「コンディショニングメソッド」を確立した。
一般社団法人日本コンディショニング協会(NCA)会長。
体操の名門、大阪・清風高校から筑波大学に進み、24歳の時、アトランタ五輪に出場。平行棒で当時最高F難度のオリジナル技、懸垂前振りひねり前方かかえ込み2回宙返り腕支持(ベーレ1/2ひねり)を披露し、その技は正式に「タナカ」と命名された。
現在は、流通経済大学のスポーツ健康科学部で教授を務めるなど、教育者、コメンテーターとして活躍している。
現K-1 WORLD GP スーパー・フェザー級王者。スーパー・バンタム級、フェザー級に続く戴冠で、史上初の3階級制覇を果たす。
超攻撃的なファイトスタイルを貫き、「ナチュラル・ボーン・クラッシャー」の異名を取る新生K-1のカリスマ。
通算成績、38戦 37勝(22KO) 1敗 。(2019.3.11現在)
2003年6月の日本選手権で200mの日本新記録を樹立(20秒03=現日本記録)し、同年8月、フランス・パリで開催された世界陸上の200mでは銅メダルを獲得。同種目での日本人初のメダリストとなる。
さらに、2008年北京五輪では4×100mリレーで銀メダルを獲得。
今も現役を続けながら、スプリント理論の探究を続けている。
16歳で出場した2001年の福岡世界水泳から2012年ロンドン五輪まで、競泳の日本代表選手として活躍。女子100m・200m背泳ぎの元日本記録保持者。
引退後、競泳選手の"メンタルタフネス"を研究し、早稲田大学で修士課程修了、順天堂大学院では博士課程を修了後、博士号を取得している。
また、JOCオリンピック・ムーブメントアンバサダーとしても活動中。
東京学芸大学出身で、中学・高校の数学の教員免許を持つ異色のJリーガーとして話題となる。
2007~09年、鹿島アントラーズのJリーグ3連覇に貢献。自身も3年連続ベストイレブンに選出される。2010年南アフリカW杯の日本代表メンバー。
10年間在籍した鹿島を退団後はタイ・プレミアリーグなどでプレーし、関東サッカーリーグ1部では選手兼コーチを務めた。
2018年に現役を引退。現在は解説、指導、執筆と幅広く活躍している。
全日本選手権の女子シングルスでは、3連覇を含む優勝5回。2000年代後半には不動の女王として、日本女子卓球界を牽引した。
オリンピックには2008年の北京、2012年のロンドンと2大会連続で出場を果たし、ロンドンでは福原愛、石川佳純両選手とともに団体で銀メダルを獲得。男女通じて日本卓球史上初の五輪メダリストとなった。
2016年に現役を引退。後進の指導にあたる一方で、テレビ解説などメディアでも活躍している。
PGA(日本プロゴルフ協会)のA級ティーチングプロ。
そのスイング理論をさらに深めるべく、42歳の時、筑波大学大学院体育研究科へ進み、博士号を取得。(学位論文「ゴルフスイングの変容に関する技術発達史的研究-新しいスイング練習法の構築に向けて-」)
現在は、独自の「コンバインドプレーン理論」に基づき、ゴルフの普及・発展に務めている。
モットーは「指導法を話せなければ、コーチする資格はない」。
「球界の頭脳」と呼ばれた名捕手。
スワローズを5度のリーグ優勝、4度の日本一に導き、大卒社会人出身選手として初の通算2000安打達成ほか、MVP2回、ベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回。2006~07年には選手兼監督を務めた。
引退後の2015年、野球殿堂入りを果たす。
巨人一筋20年。通算228盗塁、成功率8割2分9厘をマーク。代走盗塁数131は歴代トップ。球史に残る「走塁のスペシャリスト」としてその名を刻んだ。
2016年を最後にユニフォームを脱ぎ、今後は「神の足」と称されたその卓越した走塁技術を後進に伝える立場となる。
プロサッカー選手として、名古屋グランパスエイト、川崎フロンターレで活躍。
引退後はテレビ・ラジオ番組でコメンテーターを務めるほか、全国でサッカー教室を開催。
論理的な思考を旨とし、サッカーだけにとどまらない幅広い分野の知識を基に、「日本が世界で勝つために必要な身体の使い方と技術」の再定義に努める。
同志社大学サッカー部テクニカルディレクター。